子どもの貧困、母子家庭の貧困率の高さ、児童虐待、DV、いじめ、学校における性被害、ひきこもり…

子ども家庭、若者を取り巻く環境は厳しくなる一方です。

それに比例する形で、児童相談所ほか専門機関の相談や支援はすでに限界を超えていて、必要な支援や制度の整備は追いついていません。

また、学校や病院など専門領域で子ども家庭、若者たちを関わる現場ではその課題の背景が世代にわたって連鎖し、深刻化していることに気づきながら対応に苦慮し続けています。

私は、2000年に「地域で誰もが生き生きと生活するための地域づくり」を行うため、地域の一員としてNPO法人地域生活支援ネットワークサロンを立ち上げました。当時は子育て支援、障がい児者やその家族への支援が中心でしたが、ホーム機能を失い、学びと社会参加の機会を逸失した若者たちのニーズも設立当初から見られ、連携するうちに児童相談所や病院、学校などを通じて紹介されるようになってきました。

関係者からの相談を受けるうちに、そうした若者たちに必要なものがわかってきました。

それは、「身一つで来ても、安心して暮らせる場所」「生活の場面での学び直し」「人との関わりを通した自己他者理解」「社会参加の機会」の4つです。

しかし、それらを保障する制度や社会資源はほとんどなく、既存の事業を応用したり、事業所の空きスペースを活用したり、単年度助成や補助、モデル事業をやりくりすることでニーズを受けてきました。

その結果、当初は心身ともにダメージが大きく、自立からは程遠い存在だった若者たちが徐々に成長し、その成長を支えることで組織や地域が成長する機会が与えられるなど若者たちに育てられ、支えられるようになることに手ごたえを感じることになりました。

一般的な従来の福祉や支援の枠組みを超えて、若者たち、地域人材、市民活動団体が共に自立を目指す協働者として地域の社会資源となる新たな仕組みの必要性を強く感じ、プロジェクトを立ち上げました。

釧路の若者支援・活動の沿革

第1期 2001~2007年 埋もれていた若者の存在が見え始めた時期

2001年子どもの虐待防止協会釧根支部の立ち上げたことによって、児童相談所など公的機関や病院、学校などとのネットワークができて、関係機関から家庭で行き詰ったり、児童施設退所後に心配な10代の若者たちが紹介されてくるようになりました。住まいの場や居場所、就労の場を紹介したり仲介したりしました。

第2期 2008年~2011年 「支援」がつながりや可能性を広げていった時期

2008年1月から生活保護世帯等の中学生を対象とした学習支援事業(学ぶ場、居場所)を始めたこと、その実施場所であったコミュニティハウス冬月荘において支援付きの多機能下宿(居住支援の場)をスタートさせたこと、また私が札幌市のスクールソーシャルワーカーとして学校における生活相談を受け始めたこと(ニーズと直結・連携した総合的な相談支援)により、社会課題に対して入口から出口までの社会資源がそろったことから、急速にニーズが増え始め、特に遠方から支援を求めて移住する若者が増えていきました。冬月荘の部屋はすぐにいっぱいになり、緊急雇用事業を活用し、2011年に夏月荘のモデル実施を経て2012年には自立援助ホームをスタートさせることになりました。

第3期 2012年~2014年 「活動」がつながりや可能性を広げていった時期

2012年ごろから生活困窮者への支援が制度化に向けて動き出したことをきっかけに、当事者が参画する調査研究事業を企画していきました。モデル事業の中で、自分たちが抱えている課題について外在化して研究対象として議論する「フィードバック研究会」が発想され、継続して実施されることになりました。こうした活動は従来の福祉的な支援よりも、社会参加、多様な学びの機会提供の方が明らかに自立へ近づくことができ、その活動の中で結果として次第にスキルアップし、就労へ結びついていくケースが増えていくことにつながりました。社会参加をベースとして、若者たちが社会資源となるモデルが確立された時期です。

第4期 2015年~2017年 「暮らすこと」がつながりや可能性を広げていった時期

2015年から財団法人秋山記念科学振興財団の助成を受けて「生きづらさを原動力に生きることの意味を再発信!プロジェクト」が創造され、「Frame Free Project」(通称FFP)として本格的に若者たちの活動が開始しました。NPOで使わなくなった拠点を活動の本拠地として、居場所や仕事づくり、語り合い、交流、研修などに日常的に取り組むことになりました。活動を続けるうちに活動の三本柱

①自らの生きづらさの体験を語ることで学ぶ『講師派遣』

②生きづらさの背景を探り、言葉にし、また文献などの学習を行う『研究活動』

③生活場面を共にし、暮らしの学びと関わり合いのやり直しをする『日常活動』が確立しました。講師派遣で積極的にいろいろな地域を訪ねて体験発表をしたり、全国各地から交流のため訪れる関係者との交流の機会も増えていきました。

第5期 2018年~2020年 「仕事」がつながりや可能性を広げていった時期

2018年の春にNPO法人が福祉サービスの市場化の影響を受けて、大量の人材流出により自立援助ホームや障がい者のグループホームの運営が困難となったことをきっかけに、活動をしてきた若者たちがそれらの運営への参画を決意し、生活支援拠点「コミュニティホーム大川」が若者たちの住まい兼職場兼活動拠点となりました。秋山財団の助成金も3年の期限を迎えましたが、再度の応募も採択され、セカンドシーズンとして、「暮らし、仕事、社会を創りなおしていく主体」として若者たちが活躍し始めました。それまで、行き詰っていたり、自立からほど遠いと言われてきたり、支援の対象者でい続けたかもしれない若者たちが環境さえあれば活躍できることが証明されています(現在進行形)

若者支援の申し子「ひとみ」の歩みが物語る

このプロジェクトの担当のひとみは釧路に来て10年(まもなく11年?!)が経ちます。2010年当時、18歳で定時制高校に在学していましたが、学業も家庭生活も行き詰っていました。両親の精神疾患や経済的な困窮、離婚、長期間の母親からの過干渉などの課題を抱えて、精神科の閉鎖病棟に入院し、退院が決まっても家庭での生活では全く将来も見いだせずにいました。

養護教諭の紹介で当時、スクールソーシャルワーカーとして支援に入っていた私と出会い、モデル事業として取り組んでいたコミュニティハウス冬月荘を頼って釧路に移住してきました。

当時のひとみは自立からはとても遠いように見えました。精神的にかなり不安定でODやリストカットを繰り返し、支援スタッフを振り回し、病院の救急外来に駆け込むこともあるほどだったからです。

しかし、モデル事業の学びの場に参加をしたり、支援者ネットワークの後押しで単発のアルバイトをしたり、ヘルパーの資格を取得したり、いろいろなプログラムの参加や支援、人との出会いで、力を徐々に発揮していきました。

また、通信制高校を卒業を機に就労体験の新たなモデル事業(農福連携の農林水産業の補助事業)の活用により生活保護からの脱却を決意し、保護廃止前に生業扶助で運転免許も取得しました。その段階でこうした資格を取得したことは、活動や就労支援の場において役割が広がり、活躍機会が増えることになり、自信の回復や稼働収入に直結していきました。

ただし、資格を取得したからといって、すぐに介護職として一般就労することは困難でした。そのため、我が家の長女の支援から始めてみてはどうかと言うことになりました。長女は知的にも身体的にも重度の障がいがあり、日常的に多くの支援を必要とします。

それまでは家族介護が当たり前で私や私の母が介護を全面的に行ってきましたが、この先を考えるといつまでも家族が担うことは難しくなることはわかっていたので、在宅サービスを活用するいい機会になると思い、ひとみが介護OJTとして自宅に入り始めることになりました。

家庭の機能が十分ではないため成長機会を逸した若者にとって一般家庭に入り、ナチュラルなサポートを受けながらのOJTは仕事の職業訓練であると同時に生活の訓練と愛着関係や対人関係など社会性の学び直しの機会になります。効果的に心身の回復と職業的スキルアップにつながっていきました。

さらに、第3期に取り組み始めた調査研究事業にも参加するようになり、自分たちの生きづらさを社会的に理解し、自分たちの社会生活に還元するための見通しややりがいを見出すこととなっていきました。

次第にそうした活動の中心となり、第4期に福祉現場が人材不足で危機的になったときに「みんなで、一緒にやればいいよ」と自ら声を上げ、スタート当初から住み込んで事業を支えました。そうして「コミュニティホーム大川」のコーディネーター的な役割として事業の調整役や後輩たちの応援を担うようになりました。

同時に介護福祉士の取得もして、ケア現場において当事者の思いや背景を理解し、寄り添うことのできるケアワーカーにも成長しています。

ただし、長期間にわたって受けたダメージの影響はまだ残っているので、少し無理をするとメンタルは不調に陥ります。

いい子でいることを強制されることで身に付けた過剰適応のスキルは表面的には社会適応をしているふりができる高度な技ですが、その技を使うことによってメンタルはダメージを受けていきます。

誰かの顔色をうかがってキャラを作るのではなく、本当の自分を理解し合える活動仲間の存在やフォローの体制があるからこそ、安心して力を発揮できています。

仲間同士のコミュニティづくりや現場のフォローができる人材確保の重要性もまた痛感する日々です。

ひとみと同じように回復と自立のストーリーは他の若者たちにもそれぞれ見られます。これまで札幌等の遠方から移住し、自立に向かっている若者は10名以上に上り、貴重な地域の担い手になりつつあります。

 さらに、一昨年度よりSNSによる相談支援をスタートしたことや連携団体が携わっている全国対象の何でも相談事業(よりそいホットライン)のつながりや、また昨年度からスタートしたネットの居場所ポータルサイトの運営により、全国のニーズをキャッチすることになり、コミュニティホーム大川が軌道に乗り、制度外の若者たちを受け入れる体制が整ってきたことで、全国から行き詰った若者たちがつながりはじめ、2017年からの3年あまりで道内のほかにも東京、鹿児島、仙台、横浜、京都、千葉、秋田、静岡などから若者たちが移住してきました。

いずれの若者たちも環境の調整や周囲の理解によりそれぞれの力を発揮し、ボランティアからアルバイト、パート、正職員として支援現場で活躍しています。

現実は厳しい

 しかし、ひとみをはじめとして実際につながって釧路に来た若者たちが指摘するのは、「自分たちはたまたまここに出会えたから今があるが、どこにでもこんなところがあるわけではない」「自分たちがラッキーだったで終わらせるのはおかしい」と言うことです。

一昨年に、SNS相談を経て、京都から移住したAさんが言いました。

「他に行くところがないから、ここに来ました」

幼い頃から家族のしがらみの中で、自己表現を許されず、ロボットのように生きてきたと言います。緘黙や摂食障害とも付き合いながら何とか大学を卒業したものの、就職できず自立するイメージもわかずに絶望していた時に、SNS相談とつながりました。

たまたま相談を担当したのが釧路の若者だったことから、釧路の取り組みが紹介され、釧路に来たのです。

釧路に来た時に、たまたま新たに取り組み始めた「ネットの居場所ポータルサイト」の運営(厚生労働省の自殺対策事業)に携わり、結果としてその仕事がぴったりとはまりました。(何かと偶然が重なりました)

そんなAさんにここ(コミュニティホーム大川)みたいなところがどれだけあればいいと思うか?と問うと

「都道府県に10カ所ぐらい」

との答えが返ってきました。同じような状況で苦しんでいても、逃れた後に生活できる場の保障、逃れるための指南、移動のためのお金、当面の生活の支えや手続きのサポート、新しい生活における様々な理解や応援、人とのつながりがまったくない中では、自立に向けて一歩を踏み出すことすら難しく、家で耐えるしかできない現実があります。

それに耐えかねた場合にはすぐにでも生活費につながる出会い系を頼る、風俗に職を求めなど、搾取のリスクを負ってでも強行に出るしかないのが現実です。

また、何らかの障がいの対象となれば、福祉制度の活用も方法としてはあります。

ひとみも18歳当時に障がい福祉サービスの対象にはなっていました。今思い返して、その時に利用していたとしたら、今のように主体的な社会の担い手になるのではなく、一人の障がい者としての役割に適応していたのではないかと想像して、現実との違いに愕然としました。

それは社会的コストの面でも損失となりますし、何よりも、本人の可能性を広げることにはなりません。

改めて従来の福祉ではない方法で自立を応援する仕組みが必要だと言えます。

これまでの実践から、それはそれほど難しいことだとは思っていません。少しの発想の転換や工夫で何とかなることもありますし、その応援する仕組みにある程度のお金をかけたとしても、投資的な役割を果たし、若者たちの活躍と言う形で還元できるという確信があります。

担い手としての可能性

 一方では、障害福祉制度においては親亡き後を見据えて家族も本人も安心して地域生活が送れるよう、ショートステイやお試しのグループホーム利用など家族介護から地域の社会的な介護へ移行するための拠点として「地域生活支援拠点」が構想され、その実現が大きなテーマとなっています。

しかし、実際には人手不足や福祉サービスの市場化により、重度の障がいがある人や宿泊の伴うサービスや緊急対応や臨機応変の生活に根差したサービス提供は経営が不安定になることや人材の確保が難しく、その現実的な実施イメージが広がらず、整備に苦慮している実態があります。

 一昨年度から取り組み始めたコミュニティホーム大川は自立援助ホーム、障がい者のグループホーム、若者たちの下宿とその他の活動拠点が雑居しているスタイルにより多様な若者たちを理解とネットワークで受け入れとその若者たちのマンパワーを活用しています。

人材不足により存続の危機だった障がい者のグループホームやショートステイ、居宅介護を引き受け、在宅で生活する障がい児者やその家族のサポーターになりつつあります。

また、自立援助ホームでは家庭に行き場がなく、社会不適応を起こしてしまっている10代の子どもたちを受け入れ、若者たちが少し先行く先輩として理解しながらチームでサポートすることで、他の支援機関ではトラブルを起こしてきて、行先のなかった子どもたちが自立に向かう姿も見えています。

受け皿としてだけではなくその支援内容や体制の在り方などノウハウやスキルについても提案できる手ごたえを感じています。

こうして、家庭や地域社会の中に埋もれている人材は本当たくさんいます。

感性豊かで、能力もある若者たちが社会の要請に合わないからと言って、指導や支援の対象となり、活躍できないのは本当におかしなことです。

そもそも、その状況は本人たちの責任ではなく、私たち大人や社会が機会を保障できてないことが原因で、私たちの責任なのです。

私たちの暮らす社会はたくさんの課題があふれています。私はそれらを解決するためにどんな些細な力も借りたい気持ちです。その気持ちで、若者たちに何とか協力してもらいたいと願って、一緒に歩んでいますが、取り組み始めると実に様々な潜在能力に溢れていると感じています。

この事業を通して、「若者たちの潜在能力」と「地域や社会の課題解決」がマッチングするような仕組みを考え、社会に還元したいと思っています。