身体と生きづらさの関係を探る研究会

これは2021年10月17日の部活の記録です。Zoomを使って話しながらなんとなくメモしていたものを再構成したので、様子をほんの一部だけお届けします。

呼びかけ

部活の呼びかけが2021年10月13日にありました。

「勉強のテーマは主に「身体」です。脳や神経も含みます。生きづらさ、みたいなものについて、身体のメカニズムから考えたいです。」(さー)

これに興味を持つ人がいて、17日にZoomで話すことになりました。以下、その一部の記録です。

いま身体が気になる理由

さー: 最近元気で、その理由としては直接的には身体感覚を感じられるようになったことが大きい。

そのきっかけはいくつかあるけど、ひとつはライフスキルセミナーの研修で1月に感情についてみんなで話したこと。感覚鈍麻傾向を指摘されたこと。あとは私の死にたさは気分障害的というよりは特性由来の症状と見立てられたこと。

セミナーで感情の話をした後「感情はどうやって生まれるんだ?感情ってなんなんだ?」と気になって、調べてみた。内受容感覚の話や、アレキシサイミア、アレキシソミア、解離などさまざまなキーワードが出てきた。それに照らし合わせて考えているうちに、自分のつらさの根本的な緩和には、マインドフルネス瞑想などの身体感覚の実感が大切なのではないかと思うようになった。当時すごく希死念慮が強かったけれど、頓服ですこし落ち着いたことと合わせて、マインドフルネス瞑想をはじめたのがよかった。やってみると本当に「え、私の手はこの手だ」みたいな実感が持てるようになって、びっくりするほど感覚に気づけるようになった。

それまでも感覚はあると思っていたけど、生きている実感はなくて、ある意味で解離していたと思う。

そこから、自然の中を散歩したり、ストレッチやピラティスをしたりしていくと、「今までずっとしんどかったんだ」と気づくくらい体が軽くなってきた。今も傷ついたり落ち込んだりすることは多いけれど、自分を責めすぎてメンタルを崩すことは最近ではない。

これは身体志向の理論の本を読む中で、自分の中では多少裏付けができてきたと感じるけれど、理論をそのまま使うのには懸念があるし、他の人はどう考えるか聞いてみたいと思った。

感覚の変化

ゆう: 休み切ることがむずかしかった。休まないほうがいいと思っていた。「効率的に時間を使わなきゃ」「休むことは時間の無駄な消費」と思っていた。

でも、休んで元気になる時もあるとわかった。ごはんとかすごくおいしくて。めちゃくちゃしんどかったときはいろんなものは味気なく感じていて、打開するために高い山に登りに行ったり突然東京に夜行バスでライブに行ったり。強い刺激でないと満足できない、感動できない。

そこから自分の感覚の鈍麻がほぐれていくと普通のご飯がおいしくて、それで満足しちゃったり。刺激がたりないんじゃなくて、いろんなことを感じる身体的感覚とかを押さえつけてたんじゃないかな。味わからないだけじゃなくて、離人症みたいな感じだったかもしれない。自分の体が自分じゃなく感じるような。

価値観の転換

さー: 価値観の転換はなにかきっかけがあって起きたのか。

ゆう: 「体を無視していかに頑張れるか」と言う時期があった。そう言う意識を変えたことが、鬱から回復してきた時のキーだと思う。

体のいうことを無視するんではなくて体の知性こそ尊重する。そう思ったきっかけは、精神科の医師の鬱病に関する著作を読み漁ってたときに、先生が書いている鬱病患者像に自分が符合していることが多いことに気づいたこと。体の感覚を無視して頑張り続ける人とか、いきいきした感情を感じられなくなってる、怒りの感情が湧いてこない……。符合することが多かった。

その先生が言ってることが正しいかわからないけど、その先生が言うように体のサインを尊重する方向でやってみよう。

今まで意識や理性で「こうあるべきだ」を優先するやり方でやってきたけど、破綻してきたから違うやり方を試そうと試したらすごく楽になった。ごはんがおいしいとか。そこからじゃあもっと身体論について調べてみようと言う感じで今に至る。

さー: 理性で管理コントロールするやり方で成功体験があって、それでなんとかやろうとしてきたけど破綻して、それで身体に目を向ける流れは私もかなり似ている。私の場合は身体に目が向くまでに15年以上かかったけれど。

ちか: 破綻してる時期が長いと、それがデフォになっててなにがおかしいかわからない。

食べ物と心

ちか: 部分的に重なるなと思って聞いてた。私はすごく気分変動が激しくて、できるときとできないときの差が激しい。体ってそもそも食べ物とかも影響してると思っていて、糖質依存なのかなと思う。自分のメンタルの問題とされてるけど、実は栄養の問題なのかなとうすうす思ってたり。さーさんが前に調子悪かった時も、ピザばっかりの生活だって言ってたし。

自然と体調

ちか: 自然の中で過ごす感覚について。前はふつうの一般病棟で働いてた。精神科に転職してから患者さんと散歩に行くようになった。外に出て太陽の光、川見たり、やまとかきにかこまれてマイナスイオンを浴びる。そこの病院で働いてる時調子がよかった。いまは外に行く仕事多くて、海行ったり山行ったり、その中で暑いとか寒いとか言いながら調子良くて。

自然に触れるっていうので、「スヌーズレン」というのを思い出した。音とか光とか感覚に刺激を与える。

刺激とお出汁の味

ゆう: 感動がなくて刺激がないと苦しかった。ライブとか山とか、徹夜でバイトした後翌朝山に自転車乗りに行ったり。ぼんやりしてなんとなく感動がなくてつらい。だから強い刺激で打ち破ろうとする。

さー: 私はそれに体や思考の不快感もあって、それを紛らわすのにいろんなものに依存していた。

ちか: 仕事を決める時にもっと刺激、もっと刺激て感じで、物足りない感じ。海行ったり山行ったり、通常でははいれない場所にいったり、通常では会えない人と会ったり、めちゃめちゃ刺激多くて、でもそれですら飽きてきて。今日の話で見透かされてる感じがした。

さー: 最近、空見てて楽しい。無理に人間関係で紛らわそうとしたり、刺激を求めなくなった。

ちか: 素材の味を楽しんでる感じがする。私も、今日話しているのはお出汁の味を楽しんでる感じかもしれない。

医学的なアプローチ

ゆう: ホルモンとか、体の臓器から出るものが体に与えることは言われている。メンタルに与える影響も。内分泌代謝のこととか、興味があれば調べてみるといいかも。

なにかのせい

ちか: 全部親のせいと思ってた時期があって、今はどうでもいいやと思う。

家庭などの環境の要因と、受け取る子ども側の要因、それから時間経過も影響するよなと思った。

私は同じ私だけど、同じ出来事をとって環境のせいと思ってた時期とそうじゃないと思う時期がある。親や社会のせいにしないとやってられない時期もある。

さー: 解釈が変化していくということかも?

ゆう: 一時避難的に親のせいにしてもいいと思う。

「スピリチュアル」と論理

さー: 厳密に言おうとすると、スピリチュアルに聞こえることになりがちで言うのが難しい。

ゆう: スピリチュアルな話は、そこでしか語れないこと、そのようにしか語り得ないことはあると思っていて、科学的なことで語れない。科学的な話は因果関係で成り立つ、論理関係で成り立つ。世の中必ずしも論理で語れないこともあると思っていて、個人的にはスピリチュアルな語りの抵抗感はない。

さー: 社会一般に共有しうる論理以外にも、無数の論理がある。神話の中にも論理があるように。でも、だれでもわかる言葉で言うのはむずかしいこともある。仏教の道元という人が「身心一如」と言ったらしい。「心身か身心か」という議論もあるらしいけど、とにかく東洋的な思想の中では自然や体と心は繋がっているという考えが多くある。けれど、それは全時代的と言われたりする。それに、体の話はまだしやすいけど、存在自体の肯定をしようとすると、社会の話じゃなくて世界の中での自分の話を私はしたくなる。それは私の中では普通だけど、話すのが難しいことが多い。

たくさんの要因

ちか: 研究のむずかしいところのひとつには「AがBによって変わった」と要因を証明すること。たとえば、マインドフルネス効果もあるだろうけど、それ以外にも食事のこととか、ライフスキルセミナーのこととか。研究の結果に影響を与えるものが多い。