13人が振り返る「ライフスキルの勉強会」アンケート回答集

3日・13日・23日、「3のつく日」は教材を持って集合!
そんな掛け声で始まったのが「ライフスキルについて考える勉強会」でした。「ライフスキルを考える」連載第2回となるこの記事では、参加者の振り返りアンケートの内容をお伝えします。

私たちの勉強会は、2月に一区切りを迎えました。(個々の話については、また次回以降振り返ろうと思います)
「取り組みを続ける中で、それぞれの参加者はなにを感じていたのか?」ということを聞くためにアンケートを配布しました。

質問は主に3つ。

1. 教材についての感想
2. 教材を使用して実施した勉強会についての感想
3. 取り組み前後での自身の変化

これらはすべて「定量的に測って感想が規格化されてしまうよりも、一人ひとりの言葉で書いてもらうほうがいい」という考えのもと、記述式の回答をお願いしていました。

そもそも、この勉強会は若者自立プロセス資源化モデル事業の取り組みのひとつに位置づけられています。
この事業は「一般的な従来の福祉や支援の枠組みを超えて、若者たち、地域人材、市民活動団体が共に自立を目指す協働者として地域の社会資源となる新たな仕組み」を作ることを目的としていて、2020年度からの3か年計画で、助成金を活用しながら実施しているところです。

初年度である2020年度、既存の教材を利用した「ライフスキル」についての勉強会でなにが見えてきたのか。
教材そのものや、FFPの活動の効果、そして今後の活動にどう役立てられるかというヒントを得るためにアンケートは実施されました。
今回の回答は、これからの私たちの議論の材料として活用されていく予定です。

さて、これから掲載するのは、現時点(3月10日)までに返答があった13人の回答です。
長文の回答もありますが、とくに抜き出したり、視点を加えたりすることはせず、回答全文を載せることにします。(個人情報に関わる内容について、編集箇所があります)
ぜひ、じっくり読んで、一人ひとりが感じたことや考えたことに触れてください。

教材を使うなかで気づいたことや感じたことはありますか?

1つ目の質問は、教材についての感想です。

教材はそれ自体が社会規範を内在化させすぎていて、しかもそれに自覚的ではないと思った。それがしんどくなることも、ばかばかしくなることもあった。
ただ、生きづらさが個人的主観的語りにしかならないことにより共通言語を持ちづらい場合があるとすれば、この教材をみんなで通ったことはけっこう意味があったかなぁと思った。

教材は読み物として読みやすかったです。時間がかかるものの、ワークも取り組んでいて勉強になるなと思えるものが多かったです。

教材は昭和時代に作ったのだろうと思った。家族神話、恋愛神話、成長神話、男女二分論みたいなものが色濃く、時代錯誤な感覚が強かった。

自分の経験を振り返る機会になった。過去の経験が私を生きづらくさせてきた事を再認識させられた。
また、現在の社会の個人主義・自己責任論の強さ(それがスタンダードな思想として浸透していること)を再認識させられた。共同的・社会的な思想や生活様式は、本来の人間のあり方なのに、むしろ異端になってしまっていると感じた。個人が社会的な考え方をすればするほど、共同的な生活をしようとすればするほど、現在の「社会」からは排除されるようなジレンマがあると思った。
私は自分の心身と生き方をもって、現在の社会の病理を表出していると思ってきたし、今もそう思っている。しかし、世間の多数派(この教材も)は、「問題は私のもの」だと言う。これが自己責任論であり、これまでもこれからも私が闘っている対象なのだと理解した。

過去を振り返ると、やはり暴力は許されないと思った。
そして、暴力は世代間で連鎖してきたと思う。暴力は放任すると、時間的にも空間的にも、連鎖反応的に広がってしまうのだと思った。
1冊目の振り返りレポートに書いたように、「こんな病的な社会で、まともに周囲からのメッセージを聴いて、自分の人生に向き合って、生きていたら、病的にならざるを得ないと思う。」
個人と個人の間に必要以上の線引きをして、必要以上に主体性を求めることの怖さ、異常さ、そして嫌でもそういう風潮の中に自分たちがいることを感じた。
どんなアイデンティティを持っていても、アイデンティティが半ば崩壊していても、たまたま人は人として、生き物としてその瞬間に生きているだけだから、アイデンティティに固執するのは無意味・非生産的だと思った。

自分たちの社会の病理を解きほぐすためには、思想だけでなく、生活の仕方から見直して行動しないといけないように思った。

感情や責任の境界が曖昧だったり、セルフケアがうまくできないことに気づいた。

自分を分析するツールとして良いものだと思う。気付きや枠組みを与えてくれる豊富な内容が詰まっています。
ある程度健康で、多数派の人たちを想定して作成されている印象です。自分で気付いて、自分で修正して、自分で行動化できるというような人たちが対象かも。
教材から実践に移すまでが、個人差はありますが、支え合ったり見守り合うような、システムは必須だと思いました。釧路ではミーティングがある事で、他の人の解釈や講評が得られ互いに理解し合えるので、動機づけになりますし評価し合って励みにもなります。
独学では知識に偏ることもあるので、フィードバックの工夫は何段階にも縦横にもあると良いのではないかと感じました。

感情には境界があることを知りました。周りの人は真剣に感情と向き合っているように感じました。

教材は届いてすぐパラパラ読んでみて、なるほどなぁ、って興味を持ったけど、いざ取り組もうと思ったら正直わりとすぐに飽きてしまいました。でも、勉強会もあるから最低限進めないとな、っていう気持ちと元々持ち合わせている真面目さでコツコツ進めてたかなぁと思いました。なんとなく感じる昭和感?に違和感はあったけど、いろいろ考えるのは好きなので、取り組み始めると面白いなぁとは思いました。
シートを提出して、コメントが返ってくるのは嬉しいなぁとは思ったけど、私への返信というよりも、パターンの返信に感じてしまってちょっぴり残念でした。
境界のことや、Iメッセージなど、生きづらさを普段から表面的に出していなかったり、自覚してなかったりする人、普通に生きてきたなぁと自覚してる人にも、学べる機会があったらいいなぁとは思いました。(実際、「自称ふつうの人生」の人にも話してみたら興味を持っていました。そもそも、自称ふつうの人生の人って私的には全然普通じゃないなぁと思っています)

普段言葉としては知っている程度のことも、改めて学ぶことで、自分事として意識をするきっかけになりました。

自分は境界線の内容が1番引っかかりました。
境界線はどういう種類があってどう対処すべきか具体例を用いて書いてあったことが、自分自身の経験や環境に照らし合わせて学ぶことが出来たので身になりました。

支援職をする上でも活かせる場面が多く、特に人外関係の相談では境界線を使って説明をする場面もありました。

自分と教材とのズレ

自分自身と向き合う時間があまりない事や、環境によって教材を答える自分みたいなのの違いを改めて思い知らされた。

自分自身では、教材1の「境界」が印象的です。元々、自己他者境界という言葉を使っていて意識していた部分はありましたが、教材によってその中身がより具体的になった感じがします。(自己分析にも繋がりました。)
周りの人を見ていると境界を適切に保つのは簡単じゃないのだなと思いました。
感情についてはちょっと難しかったです。そんな上手くいかないよ〜と思ったりもしました笑

自分は、1→2→3と進むにつれて興味が薄くなる感じがしました(時間がとりにくくなっただけかもしれませんが)。1は、境界についてよくできてるなと思いました。3は、いきなり社会に放り出された?くらいにとりくむ前提のハードルが上がっているように思いました。

勉強会に参加して気づいたことや感じたことはありますか?

2つ目の質問では、教材を使った「勉強会」に焦点をあて、それについての感想を聞きました。

おもしろかったが、おもしろすぎて私が喋りすぎてしまうので恥いる瞬間があった。でもしゃべった。
解像度が!あがった!

セミナーをすすめる中で感じていたモヤモヤを共有できました。また、勉強会の中で設定したテーマをメンバーで語っていくことで自分がどう考えているか明確になることもあり、自分を知るきっかけにもなりました。

セミナーの内容は、私の勉強したいこととは違っていたので、もっと自分の勉強したいことを勉強する時間を持つことが必要だと思った。そこで、読書をするようになった。
セミナーの内容とは少し離れて、11月3日の勉強会で「青年期の生きづらさと発達期における育ちの関係」で、Iさんの事例から気づいたことを書いていた(以下、引用)。
私は、中学生頃から今まで、断続的に、自分だけのために言葉を書くことが多かった。習慣というか、生活の一部に、自分だけのために言葉で書く、ということがあった。他の人のイメージでいうと、手帳を付けるような感覚かな。毎日の出来事を書くわけではないから、日記とは違った。
私は、人と話すことが殆ど無かった。でも、言語化したい欲求は高かったので、そういう手段を取っていたんだなと思う。
書くことは、やるときは自然にやっているけど、やらなくなる時期もある。わりと長期的な周期(年単位)で交代する。たぶん、行動するのに忙しい時期は、書かない。生活環境が変化する時期とか。釧路に来てから、全く書かなくなったけど、つい最近、書くようになった。生活環境がある程度安定すると、自分の人生や価値観について考える時期になって、文章を書いたり読んだりするんだなと思う。ある程度考えていくと、実際の行動に移したい欲求が高くなるから、行動して、忙しくなって、書かなくなる。
私にとって、自分で選んだ結果として、環境が変化することは、基本的に「よいもの」として受け止めるけど、適応するのは得意ではない。(好き嫌いと、得意不得意は違う。)
それと、自分だけのために書くことは、少し虚無感・孤独感というか、無意味なのでは?と思うことがある。生産的でなければならない、人の役に立たないといけない、という社会からの圧力もある。けど、書くことによって、自己管理ができたり、自己決定に役立つから、やらないとQOLが下がってしまうので、断続的に書くことを続けている。

感情排泄不良で調子を崩すことがある説がでてきて、なるほどと思った。

互いに自己開示して、認め合って、見守り合って、労い合うことなどが、普段から醸成されたコミュニケーションの中で進められていたように思います。
自分はどうしたいのか、の思いをはっきりとさせて、戦略戦術を練り、行動を具体化してタイミングをナッジする流れを、組織として狙って柔軟に動いているイメージを持ちました。

所属の場という認識もあり、安心感を持っていることに気づきました。

最初のころはまだ教材をけっこう使ってたような気がして(かえってきたシートを見返したり)それはそれで悪くはなかったけど、だんだん教材よりも教材全体からテーマを決めての勉強会になっていったように思いました。やってみた感想としてはあくまで教材は導入の一部で、そこから広げていく形だったのがよかったなぁと思いました。zoomでの参加だったので、なんとなく話したいと思った時に、その場にいる時よりも話せなかったり(ちょっとした相槌とかできなかったり)、その場の空気感みたいのを感じ取れなかったので、そこは少し残念でモヤモヤしてしまうこともありました。ただ、個別で話せるような時間も作ってもらっていたので(結局その時は別に話したいことが出てきたりはしてたけど)モヤモヤは多少、解消できてたかなぁと思います。月に3回はわりとちょうどよかったように思います(メンタルの変化的にもっと、!って思うことはあったけど、たぶん月に4回≠週一ペースだったらそれはそれでちょっと大変そうだな、と。)
中々参加できず申し訳ありません。

気づいたことは2点です。
1つ目は教材の内容を見て自分で考える以外の意見が飛び交い、共感や相違をすることで自分の考えを補填することができたことです。

2つ目は大人数の前で意見を言うことに慣れたことになったことです。
以前は役割や何か言わなきゃみたいなのを考え、自分で何言ってるか分かんなくなることがありました。しかし、回数や環境の整備のおかげか、自分の意見を言えることになってることに気づきました。

感じたことや思うことはあるがまとめきれない

教材を通してそれぞれの感じ方や違いを見つける部分が多くその事を議論することが楽しかったし、同じことを共有できるからこそ、新しい人たちとやってもすれ違いが少なかったように感じる

感情分化説ってどうなのか?という話が1番記憶にあります。勉強会というよりは、3の付く日にみんなと話せる、話を聞けるということが楽しみになってた気がします。
相談の現場だと気になっても聞きづらさを感じて聞けないようなことや自分の話も、勉強会だと聞きやすいし話しやすいので、勉強会というやり方はいいなと思いました。(自分が立場?に縛られているだけかもしれないが)

いろんな人がみんなで話したり、誰かの話を聴きながら考える時間(外部刺激で思考する時間)が自分にとってはいい時間でした。

全体を通して、取り組む前と後で変化はありましたか?

この質問では、取り組みによる自身の変化を聞きました。

ものごとを「わかる」には思考と実感の両方が欠かせないと思うが、
これまで、私はだれかと、連続して、深く一緒に考えた経験がなく、ずっと一人でぐるぐる考え続けていた。
一人でも、がんばれば思考はけっこうちゃんとできる。でも実感はできないらしい。
ミーティングの中で、自分と他の人との共通点や違いが見えるにつれて、自分が抱えていた問題の輪郭が見えたし、
「こうあるべき・これが本当・こうでありたいと信じているけど、それらを実感できない」と思っていたことが、実感として腹落ちしていった。
言葉の正しい使い方をしている数少ない場所だなーという感想でした。

セミナーで具体的に考えるワークがあったので、生活の中のコミュニケーションに活かせる小さな工夫を見つけられて、少し気が楽になりました。

特にないと思う。ただ、自分の経験を振り返って書くことができた。自分で本を読んで勉強するようになった。これらは昔から断続的にやってきたことなので、セミナーがなくてもやっていたとは思うけれど、「一人で考えて文字を読んだり書いたりする習慣」を取り戻すきっかけに、セミナーがなったかもしれない。

日々の生活の中で「ああ今は〇〇の境界に侵入されている」なとど気づくようになった。

境界を知ったので、断ることが楽になったこと。

取り組む前は、自身が相手に与える影響を重く考えていましたが、感情や責任には境界があることを学び、思考が少し軽くなりました。

一番感じたのはセミナー1の境界の部分で、わりと短期間で日常生活に変化が感じ取れたなぁと思います。境界を上手に引けるようになった、というよりは、振り返ってこういう境界は侵略しちゃうなぁとか、自分はここの境界が大事だから境界に入ってこられたからイライラしたんだな、みたいに境界を軸に考える頻度は増えたと思います。
もう一つ。普段から自分のキャラや相手が求める「私像」を勝手に想像して維持しようとして、自分の気持ちよりも求められてる発言を考えたりして苦しくなっていたことに気がつきました。

多くの気づきがあり、日常生活の中でも、自分のアンテナが増えたような気に勝手になっています笑

変化はありました。
これも大きく2つで、断るという選択肢を覚えたこととメタ認知の変化です。

断れるようになったことで自分が無理することなく人と関われるようになりましたし、自分の中の優先順位を作ることができました。

メタ認知については本当に弱かったのですが、境界線を引けるようになり、自分の主語が大きくなっていった印象があります。
そこから自分がなぜこう思うかや、どんな気持ちなのかが言葉だけだったのが自分の考えとしてついてこれるようになった様な気がします。

知識は増えた

それぞれのことをよく知れたし、境界については共通言語のようになって仕事の場面で役に立った

大きな変化はないかもしれないです。
境界やアイメッセージを意識しすぎて、「今、ちゃんとできてただろうか?」とぐるぐる考える時間が前より増えたかも、、?

あまり変化は感じないが、今まで肌感覚でやってたものが、少し整理される感じはあったかもしれません。