「真実はいつもひとつ、ではない世の中でどう生きるか」研究会

劇場版「名探偵コナン 緋色の弾丸」を観た部活動メンバーのひとり・さーさんは、その翌日の2021年5月11日、部活動のグループにメッセージを投稿しました。
「きのうコナンの映画を観たら、うっかり暴力的で加虐的な気持ちになって、まだ悶々としてしてます……。この暴力性とかについて、だれかと話したい&だれかに聞いてほしいです…!」

これにちかさんが応答したため、その日の夜にZoomをすることになりました。以下の文章は、井戸端会議的に脱線しまくりながら、暴力や社会の窮屈さなどを話し合った4時間に渡る対話の(「これが正しい」というような結論ではなくて、それぞれが考えながら話し合う過程の)記録です。

わかりやすい苦しみ、わかりにくい苦しみ

さー:「名探偵コナン」を観て、楽しかったは楽しかったんだけど、なんというか、コナンくんとか赤井さんとか、このキャラクターたちはなぜこんなに他者への無理解のまま、他者を蹂躙するんだろうって考えていたら悲しくなっちゃって。そのうち「蹂躙される苦しみを知らないから、それができるのかな?」って思っちゃって、残酷な気持ちになってしまったのでした。そういうことを考えるアニメじゃないと言われたらそれまでなんだけど……。うー、悲しい!

ちか:登場人物も多少はわかるけど、あんまりわからないから話自体を説明してほしい!

(さーさんが、ストーリーを説明する)

さー:でも、考えているうちに、なんでこんなに私は傷ついた気持ちなんだろう? と不思議になって。
私は凄惨な虐待とか、拷問とか、ひどいいじめとかを受けたわけではないから。そういう、なにか決定的なこと……みたいな体験はなかったはずなのに、なぜかずっと、「つらい経験をしたことがある」と思っているんだよね。

ちか:でも、決定的なことがないほうがしんどい気がする。決定的なことはわかりやすいから、わかってもらいやすい。わかりやすいことだったら、聞いた人も、わかろうとしたりする。

例えば、「震災でしんどくて死にたい」という話なら、「そんなことがあったならしんどくても仕方ないよね」と思ってもらいやすい。でも、「遅刻して死にそうになる」みたいなことへの共感はしてもらいにくい。相手の感覚がぜんぜん違う。

さー:たしかに、決定的でないということは、イメージしづらいということかも。他の人から見てだけイメージしづらいだけでなく、自分でも理解しづらくて語れない気がするし。

でも、同じ経験でなくても、しんどい現実は分かり合える気がするんだけどなぁ。

つらいことなら、だれにだって経験があるはずなのに、なんで共有できないのかなぁ。まあキャラクターの話だけど、私は「コナン」を観て、その後ろに、今まで出会った、わかり合えない人たちを見ている気がする。

ちか:ここで話してると、ふたつの国を行き来している気分になる。
〈釧路の人とつながっている空間〉と、〈外で関わってる世界〉は別のような気がする。言葉も違う。日置さんがよく「むずかしいことはやってない、当たり前のことをしているだけだ」と言っているし、「ナチュラルなことだ」と私も思う。……でも、なにが違うんだろう。

さー:うーん。

ちか:(つらい経験の有無というより、)逆に助けてもらえた経験が少ないのかなぁ?

さー:そうなのかも。極端な言い方だけど、もし「殺さなきゃ殺される」みたいな世界観だったらギスギスするのは当然だし、どんどん信頼できなくなっていくよね。

ちか:日本では子どもは0歳から「アンパンマン」とかを観ていて、その頃から「正義だったらバイキンマンを吹っ飛ばしてもいい」というのを刷り込まれて生きてきている。

さー:私、「正義」って言葉は嫌いだなぁ。そんな正解はあるのかって思う。ないと思う。

社会的優位性が隠すもの

さー:「名探偵コナン」でいうと、主人公のコナン……というか工藤新一は、親は金持ちの有名人で豪邸に住んでて、子どもに協力的で、自分は頭がよくて高校生探偵として名を馳せていて、サッカーもできて、ガールフレンドがいて……っていう、いわゆる社会的優位性のかなり高い人だと思う。
そういう人が、犯罪以外の道を失って苦しんでいる優位性の低い人、社会的に弱い人をためらいなくバッシングする話に見えてくる。

もちろん人を殺すのがいいとか、許されるということではなくて、それで実際に死ぬ人や困る人がいるのはたしかだと思う。
でも、それをその人個人の話にして、狙撃したり、追い詰めたりするのは違う気がする。

ちか:うん。
まあでも、お金とか、その人にとっての権力になりうるもの……たとえば政治家だとか、工藤新一の家族構成じゃないけど、社会的には恵まれてる環境にいると思われている人が絶対幸せとは限らないとも思うけどね。

さっきの「決定的なことがなんにもない方がつらい」ということとも近いところがあるかもしれないけれど、優位性が高いけどしんどいとか、高いからこそしんどいということもあるとは思っていて。

たとえば、すごいお金持ちの家で育った子がいるとして、家の中でネグレクト的なことが起きていたとしても、「お金持ちだからとなるじゃん」みたいに言われるかもしれない。わかりやすい優位性が覆いかぶさって見えなくしちゃう。
DVのせいで離婚できないから、戸籍上では夫婦ということになっている、みたいな人の話も聞く。離婚できないせいで、シングルマザーの扱いにならないから、シングルマザーのための支援が受けられない。

自分もよく考えたらそういう経験があって、相談したときに最初は聞いてくれていたのに、途中で「職業は看護師で」と言うと、「看護師さんなら大丈夫」と言われて……そういう感覚。

さー:たしかにそれはそうだね。私自身にも、そういう優位性はあると思う。貧困ではなかったし、いろいろな情報にアクセスしやすいところにはいたから……。
実際にそれによって、なんとかなってきたところも少なからずあると思うけど……。でもやっぱりしんどいよ、私のしんどさは現実だよっていうところもある。

ちか:自分はちゃんと「死にたいなぁ」と思える人生でよかったと思う。死にたさが強いとか、「死のう」と思うときはしんどいけど、私にとってのゼロ地点は「死にたいなぁ」くらいの感覚のときだから、そのくらいで生きられるのはまだよかったと思う。社会から見たら恵まれているということではなくても、私の強みはそこだと思う。

わからないことは「だめ」ではなくて

ちか:工藤新一とか五人レンジャーとかアンパンマンとかが「だめな存在」なのかと言われると、それも違うよね。その人もその人なりの人生があってそうなってるのであって。だめだと批判するのもおかしいのかなと思うと、すごいぐるぐるする。

さー:存在そのものがだめってことは絶対にないよね。それはなにに対してもない。だめじゃないし悪くもないけど、それによってだれかが困ったり、悲しんだりする現実もある。

ちか:前にラジオに出演したとき、その後に気持ちが落ちたの。「自分が話したことで嫌な思いをする人や、死にたくなる人が絶対いる」と思った。
その後に、落ち込んだ私の話を聞いてくれた人が、「あなたが傷つけようとしたわけじゃないときに相手が傷ついたのは、相手の問題。だから、そこまでを気にすると境界を踏み越えちゃうのでは?」みたいに言ってくれて。でも、今の話を聞いていたら、それも違うのかな? という気もしてきた。

私は、信号のボタンを押すタイミングでも考えるんだよね。「私が押したタイミングのせいで、だれかが急ブレーキ踏まなきゃいけなくなったりして、そのせいでだれかが死んじゃうかもしれない」とか……想像しちゃう。きりないんだけど。
自分っていろんな人を気づかずに殺そうとしたり傷付けたりしながら生きてるんだなぁと思う。

さー:私もそのきりがない気持ちは、少しわかる気がするなぁ。
でもその一方で「諸行無常だな」みたいな気持ちもある。

私は最近、アーカイヴってどういうことなんだろうと考えてて。たとえば、紙に書いて残すことは、未来の自分や他人に引き継ぐためにやることでしょ。それはアーカイヴの基本的な考え方だと思う。
インターネット上の情報は簡単にアクセスできるようだけど、何年後かには見られないものになっているかもしれない。そういうのが、アーカイヴについて考える人たちの中ではずっと考えられていて……。

でも考えてみれば、たとえば地球に太陽がぶつかったら、どんなに頑丈な金庫に入れてても、本とかあらゆる記憶媒体はだめになりそうだし、石に彫っても無理そうだし。そういうことを想像すると、諸行無常だなぁと思う。
私たちがどんなにいいものを残そうとしても、なにをしても、それは宇宙から見れば一瞬のことでしかない。

道徳と倫理

かもしぃ:ずっとラジオ参加していました!
話の流れを聞いていて、少年法の改正の議論にもつながると思った。あ、改正するかどうかの良し悪しの話ということではないんだけど……。もし少年法が改正されると、今まで更生できた人がその機会を失うかもしれないと思っていて、そのことへの無理解みたいなものを感じることがあって。
「悪いことをしたから罰するべき」という議論が、低年齢に対しても広がっていく。その子を想像した議論ではなく、それを置いて「正義だからこうすべきでしょ」という感じで進んじゃうのが怖いなぁって思う。

さー:道徳と倫理の話みたい。「道徳はルールだけど、倫理は都度検証していく態度や過程のことをいう言葉だ」みたいなことが、今読んでいる『手の倫理』という本に書いてあったなぁ。すごくテキトーな説明だけど。

ちか:学校授業だと、道徳は小学生からやるね。高校は……倫理?

(インターネットで検索するちかさん)

ちか:いや、倫理は社会の流れに位置付けられてるか! 最初が「生活」で「社会」になって、そのあと「地理」「歴史」「公民」とかに分かれるんだ。その中に「倫理」がある。あ、「道徳」の授業は学年が上がるとなくなるんだね。

さー:道徳の授業って好きじゃなかったなぁ。

ちか:小学1年生のときのことを思い出したんだけど。
道徳の教科書の副読本の表紙に木の絵が書いてあってね。隣の席の子が、表紙の木の絵に花を書いたの。それを見た先生は「落書きしてはいけない」と怒って。でも、隣の席の子は、「その木が寂しそうだったから花を咲かせた」と言っていて、それはすごく道徳なんじゃないかと当時の私は思った。「寂しそうな木が困ってるなら、助けてあげるのは道徳だな」って。
今になって考えれば、突き詰めないといけない視点はあって。たとえば相手の都合を聞かず、勝手に「この木は寂しいんだ」と決めつけたら、自他の境界を踏み越えてると思うけど……。

同調圧力は管理者向けのプログラム

さー:でも、実際の社会の中でも、基本的にはみんな普通のふりをするから、その人が本当はどうかってことはわからないよね。それは、釧路にきて実感している。
〈FFPとかこの辺の人たち〉は、自分の特性とか、性質とか考えていることを隠すことをあまりしないなぁと思う。だから、一緒に活動していると、相手の考え方とか感覚とか、「あの人は視覚認知が強いなぁ」とか「こういう記憶の仕方するんだなぁ」とか「体幹しっかりしてるなぁ」みたいなことがわかってくる。
それがわかると、比較して「私は体グニャグニャだな?」とか「実はこういうのは得意だなぁ」みたいなことがわかってくるから、結果、自分のこともわかるようになってきて、解像度が上がって。だから、こっちに来てから自分研究も進みまくってる。

ちか:そうかも。私が生活している〈もうひとつの国〉では、それがわからないんだよなぁ。私がつい「死にたいと思うことがある」とか出しちゃったときに、意外と受け入れてくれることに驚くことはあるけど。
でも他の人は、たいてい普段の生活の中で自分のことを言わないから、私が勝手に想像しちゃう。隣の席の子が「この木は寂しいんじゃないか」と考えたみたいに、勝手に想像しちゃう。他の人から、その人の本当のことを教えてもらえないからもやもやする。

さー:「普通はこうする」みたいな架空の人間像があるから、言わないままで、わからないままになるのかな。

ちか:でもさぁ、自分を表現しないことをよしとする社会というのは、管理はしやすいよね。同調圧力で、みんなと一緒にしてなければいけなくて、そういう世界は管理はしやすい。本来あるべき世界ではないと感じる。私の周りで、なにかを言った人を見て「そんなの言ったもん勝ちじゃん」という人がいるけど、言ったもん勝ちだと思うなら、その人も言えばいいだけなのになぁと思う。言える環境があって言う能力があるなら、言った人を責めるのは違うよなぁとも思う。
もちろん、その人が言えるはずなのに言えないのは、その人が育ってきた環境の中で圧をかけられたからであって、その人が悪いわけではないけど……。生きづらそうだなぁと思う。

さー:同調圧力に従う人は、為政者から見たら、人間としてではなく思い通りに動かすコマとして扱えていいんだろうね。

ちか:うん。同調圧力って、管理しないといけない人が考えたプログラムなんだと思う。
私は、仕事で関わる人たちに手の消毒をお願いすることがあるんだけど、そのときは一人を相手にするより、集団に向かってお願いするほうがずっと効率がいい。

一人の人に「消毒お願いします」と言っても、やってくれないときもある。私は気が強いタイプには見られないことが多いから、協力的じゃない人もいて。でも、集団に向かって「お願いします」と言って、はじめにその中の何人かがやってくれると、他の人もやってくれる。

そういうのを目の当たりにすると、「ああ、いま自分は同調圧力をうまく使ってているなぁ」と思う。嫌なら嫌と言えばいいのに、みんなといると言えない人が多い。それは教育されてるからだよなぁ。

さー:同調圧力から外れると損だと思うのかな?
たとえば仕事でも「絶対に損したくないから、等価交換以上のことはしたくない」っていう人もいると思っていて、だけどその考え方だと楽しくなさそうだなって私は思っちゃう。

ちか:お金の分だけ働くっていう感覚だと、損しちゃう気がするけどなぁ。私はお金が好きだから、お金基準で考えることも多い。でも、例えば「この仕事は時給が1000円です」と言われたら、その金額より働きたい。「この人に頼んでよかった」と思われたい。まあ、それは承認欲求が強いからなんだけど。金額以上の仕事をしないと当たり前で終わっちゃうから、絶対にそれ以上で働きたいと思っちゃうなー。

ときには、気を遣ったつもりで余計なことをしちゃって、失敗したなと思うときもあるけど……。でも、〈もうひとつの世界〉では、空気読んだら当たることは多い。基本的には「来てくれてよかった」と言われて、お金ももらえてよかった! となる。

めずらしく遅刻しちゃった今日みたいな日は、働けなかった感じが強い。お金がどうでもよくて「今日は収穫なかったな、ちゃんと収穫を得られなかった」という気持ちになる。
特別お金を稼ごうとは思ってないし、時給もいくらでもいい。本能的にお金の力は強いからモチベーションにはなるけど、昔みたいに「1円でも多く稼ぎたい」とはまったく思わないなぁ。だから、昔よりは固執していないのかも。
いまは時間をつぶすために仕事を入れている感じ。お金を持っていたい本能には逆らえないけど。……でも、お金って本能かな?

さー:わかんないけど、お金があると生存的な意味での安全の確立は高まりそう?

ちか:お金は「いくらあったら大丈夫」ということもないしね。「お金と愛はいくらあっても困らない」と言う人がいたけどそうでもないと思う。困っている人は見かけることがある。

我が強い? 自分がない?

さー:そういえば、熱意とか目指すものはあるように見えるのに、その人の考えがどうしてもわからないことがあって、そういう人のことを考えたりする。なんでなんだろう。「普通の人は考えを言わない」みたいなのがあるのかなぁ。

私はよく「自分がある方だ」とか「我が強い」とか言われるけど、そのときの「自分」ってどういうものだろう。自分の感覚を否定され続けて、本人にすら、自分のことがわからないこともありそう。

ちか:自分は……わからないなぁ。私は我が強いのかな? 弱いのかな?

さー:ちかさんの話を聞いていると、ちかさんは自分の感覚から感情に結びついて、そこから思考に結びついているように聞こえることがあるから、辞書的な意味で「我が強い」のかはわからないけど、自分を持ってる人なんじゃないかな?

工藤新一に「自分」はあるのか

さー:うーん。そう考えると、実は工藤新一は自分があまりないのかも!?
感覚を否定されたり、押しつぶされたりしたということではなさそうだけど、社会が評価する性質と自己がくっつきすぎて、そこを分離して考えることができずにいるのかもしれない。優位すぎても自分は迷子になるのかも。

ちか:たしかに。「困ってる人を助けることが道徳」みたいな社会に作られた正義を全面に出しすぎていて、我は強くないのかもしれないね。
まあ身も蓋もない話をすれば、作者の「正義とはこういうものだ」を投影してるってことでだもんね。今となっては「こういうふうに正義を描いたからロングセラーになった」みたいな作者のイメージもあるかも。

さー:漫画に描かれていない時間には生きているわけじゃなくて、描かれているものがすべてだもんなぁ。工藤新一や赤井秀一というキャラクター……。

ちか:国語で「このときの作者の気持ちを答えなさい」という問題がよくあるけど、私の親は「そんなの、この本が売れたらなに買おう? と思ってるだけだよ」と言っていた。それだけじゃなくても、作者の思いなんて、作者にだってそんな簡単には書けないなと思う。人の思いは複雑だし。

さー:あの設問には「人に見えてるものだけですべてがわかるはずだ」という驕りがあると思うなぁ。

ちか:結局、作者でなく出題者の意図を問う問題になっちゃってる。察する能力を学ぶだけの問題だよね。背景を読む。

働くことのクリエイティビティ

さー:さっきの話に戻るけど、私は等価交換的に仕事をするのが苦痛で、そうやろうとするとすごくしんどくなる。今は自分がすべきだと思うこと、自然とやることの中で仕事と見做してもらっていることがあって、結果収入になっているからいいけど……。

ち:前に行ったスウェーデンは、そういうところだった気がしているなぁ。いいところだけ見てきただけかもしれないけど……。
身体障害がある人たちが、日本で言うところのデイサービスみたいなところで、「スヌーズレン」という感覚刺激を受けるんだけど、それをすると、その人の仕事としてお金が入る。日本の就労支援だったらそれだけで生活するのはむずかしいけど、むこうではそれで生活していけるようになってる。

たとえば、サポータがいる中で、スーパーのレジの仕事をしたりするんだけど、サポートする看護師の収入が30万円なら、支援を受けながら働く人たちも28万円とかで。あまり変わらない。日本にもそういうふうな仕組みがないわけではないけど……あまりないと思う。

でもそういう個々人の活動が、働くことの原点なんじゃないかな。

さー:あ、ハンナ・アーレントがそんなこと言ってた気がしなくもないかも! 全然読んでないからあやふやで、わかんないけど、人間の活動を「労働」と「仕事」と「活動」に分けて話していた気がする。読みたいなぁ。私はここでいう「労働」はしんどいし、やだなという気持ちがある。

ちか:労働でなく、自分の活動のほうがいいよね。
よくある、満員電車に乗って上司に怒られて……みたいな、月曜日鬱になりそうなパターンの働き方はおかしいでしょって思う。私がいた仕事場でも、だれかがだれかを怒鳴ってて、怒鳴られた人もだれかを怒ってる……みたいな光景を見ることがあって。

人が怒ったり、感情が出ること自体は悪いことじゃないけど、言われた人が言った人になにも言えない社会なんだなと思った。
言える方に言える方に、弱い方に弱い方に怒りの球が投げつけられているのを目の当たりにして……。そういうのは私はいやだ。
働くってもっとクリエイティブな活動なんじゃないかなぁ。

さ:そうだよねぇ。

「嫌だと思ったら言える」関係

ち:どういうところでだって、だれかが怒っちゃったり関係がギスギスしたりすることはもちろん人間だからあると思うけど。でも、お互いが言えない社会でいいのか。それで社会は成立するのかって思う。まあ、日本で成立しちゃってるけど……違うなぁって。

さ:〈FFPのあたり〉でも、自分が嫌だと思ったことをことを言える人もいれば、自分の気持ちを中々言えない人もいるとは思う。でも、少なくとも、まわりの人が「言わなかったんだからあなたに権利はない」とはならない気がするし、言うのが苦手な人のことも、どういう人のことも想像したり、考えたりしていようとする人が何人もいると思ってる。

ちか:言えないのもあるかもだけど、言わないのも権利だからね。今の社会は自分があるけど出せないのかな。出さないのかな? 出し方がわからない?
わかんないなぁ、「みんな、自分の考えてること教えて!」って思う。だけどそれを強制するのも違うと思う。ただ、教えてほしいと思う。

さー:感覚や特性や個性はない方がいいみたいなところがあるのかなぁ。

ちか:私自身も、一時的に社会に適応することができないわけじゃないけど、ずっとはできない。

でも、それとなく社会に適応して、さも「普通です」という顔をずっと続けられる人もたくさんいる。
なんでそれがずっとできるんだろう? ずっと疑問。なにが違うんだろう。……なりたいとは思わないけど、疑問。

さー:私にそれができないのは、ひとつは「普通のフリ」をすることが自分を損なわせている自覚があるからだなぁ。あとは、普通のフリは、だれか他の人のことを傷つけるだろうという感覚もある。
世の中の「普通」はかなり狭いから、それから絶対はみ出る人はいるじゃない。「普通のフリ」すらしようがない人もいるだろうし。それを排除する前提の「普通」には乗りたくないんだよなぁ。

一方で、「普通でいる方が他の人を困らせてないことだ」とか、「その方がいいことだ」って思ってる人もいそう。
さっきの同調圧力の話じゃないけど、為政者には都合がいいから、報酬が与えられているだろうし。そうしたら、成功体験みたいになる気がする。条件付けみたいな学習をさせられているというか?

ちか:普通の方が楽ならそれでいいけど、普通しか知らないからそうな気がする。

さー:わたしが「普通のフリ」をし続けられないもうひとつの理由は、やっぱり発達特性なのかなぁ。私は〈このへんの人たち〉から特性が強いと言われるし、そのせいでいつもずっと同じようにはできない部分もあると思う。

……でも、なんか、「普通のフリをするか、しないか」みたいに並べて好きに選べるものでもない気がしてきた。
「自分の意見を出してください」みたいに言われても、なんか違和感があるのだろうし、「ルールに沿ってちゃんとやってるんだから、それ以上言わないでほしい」みたいな気持ちになりそう。

健康的な活動

ちか:あー、いいなぁ。いいなって変だけど、話してて、こういう時間が必要なんだなぁと思うつくづく思う。電話相談にずっとかけ続けてるときよりも健康的だと思う。

さー:〈部活動〉は健康的な活動だと思うよ。

ちか:電話相談は、自分の中で相談員さんの当たり外れの基準が見えてきちゃって、しんどいときがあるんだよね。それが満たされないと、依存行動に気持ちが行って、結果的にワーカホリックに向かっちゃう。

それに、「こういうこと言われるんだろうな」とか、「私がしたい話ができるかできないか」とか、「わかってくれるかどうか」って他者評価しないといられない自分になっちゃう。
望んでない対応の人に当たっても、「不思議だなぁ」と余裕を持って思えるようなタイミングならいいけど、死にたくて、それどころじゃときもあるから。そんなときにくじ引きしてる場合じゃないというか。300円しか持ってないのに宝くじ買っちゃったみたいな。当たればいいけどそうもいかないし。

さー:相談という構造にも限界ある気がするしね、むずかしいよなぁと思う。

ちか:最近は相談能力が上がってたきたから、「今日は聞いてほしい」とか「今日は一緒に考えたいだけ」とか最初に言うようにしていて。それが逆にめんどくさがられることもあるんだけど……、「考えてと言われたら何話したらいいかわかんなくなっちゃう」とかね。「え、怒らないでよ~」って思って、相談員さんとけんかになったこともある。むずかしいなぁと思った。
でも、そうじゃなくて「じゃあ、そこに持っていけるようにしよう」と言ってくれる相談員さんのときは「人間同士で会話できそう」という気持ちになる。

さー:人間として、自分として話していたいよね。

ベースには「不快」がある

ちか:なんか、もうちょっと違う生き方がしたいな。時々こうやって話をして……。それから、自傷行為と依存行動をやめたい葛藤がある。

さー:「依存行動をやめたいと思うと依存する」とか、「やめたいと思うのをやめると自然となくなってくる」とかも言うけど、そのへんはどうなんだろう?

ちか:やめたいというのも、依存行動にフォーカスしてるからね。

さー:ここ最近は自傷してないなぁ。でも自傷ってなんだって気もする。私は腰が痛くてマッサージしてたつもりが、気づいたら痣ができた、みたいなこともある。これも自傷? 自傷とそうでないことの違いってなんだろう?

ちか:ワーカホリックはむずかしくて、仕事をバリバリしていると、はたから見たら私がいいことをしているように見える。私自身も、「ありがとう」と言われちゃったり、ちゃんとお金が入ってきたりして、達成感を得られる。
お酒で気分がよくなる経験はしたことないからわからないけど、「この感覚に似ているのかな?」と思ったりする。

「仕事は楽しいか? 楽しくないか?」って聞かれたらきっと「楽しい」と答えちゃうけど、突き詰めると楽しいわけじゃないというか……不快の刺激を消してるだけなんだと思う。だから、本当は楽しいのかどうかはわからないけど、不快がとりあえずなくなったから楽しいと思っちゃう。
そう考えると自傷と同じだなぁ。リストカットしてる感覚と近い。「楽しくはないけど楽しくなくはない」「不快じゃないから快だね」ってなっちゃう。

さー:ベースが「不快」なのはわかる気がするなぁ。どっちかというと身体寄りの話だけど、私はだいたいいつも背中痛いし、頭痛いし、腰痛いし、吐きそうだし、体はなんか気持ち悪いし、動悸するし、呼吸は苦しくなるし、熱くなるし!
しんどいことが基本。そういう苦しさを紛らわせるなにかをずっと求めて、いろんなアディクション行動をしてきた気がする。

でもそれが人間として標準的な状態だとずっと思ってきてたから、とにかく、なるべく痛みや苦しみに気づかないようにしていた。でも、最近「あれ、違くない? わたし体調悪くない?」とやっと気づいてきたところ。
気づいたら気づいたでしんどいけど、でもそこではじめて対処を考えられたり、偽らずに痛みを増幅せずに自分でいられたりするようになったのかも。

ちか:私たちは、結局自分の人生しか知らないもん。世の中の「普通」っていう人もそうなのかも。
私にとってはお金がないのが普通の人生だった。でもあるときに「ほんとは違うのかな」となって。「まさか自分だけがつらかったなんて」と知ったときの衝撃たるや。そうすると、「それなら助けてよ」って思っちゃうし。本当に困ってるときって、困ってることに気づけないよね。

さー:そうなんだよね。渦中ではわからない。

抽象的な社会よりも具体的なだれか

ちか:ネットのニュースで、子ども食堂のジレンマについたの記事があって。「来てほしい対象の子どもたちは来てくれない」みたいなジレンマ。それに反響がいろいろあって、「来てほしくない子どもたちってなんだ?」とか。でもたしかに、それだけじゃ支援は行き届かないんだなと思った。だからといって引きずり出すようにするのも違うし……。

さー:いろいろな形でしんどい人は、社会にたくさんいると思う。多すぎるくらい。多すぎて語ろうとすると抽象化されていっちゃって、わからなくなる。私は最近それがしんどくなっちゃうから、とにかく個人的でいようと思っている。「貧困家庭で育った女性」ではなくて、「〈部活〉を一緒にしていて、○○について一緒に話したちかさん」と関わりたい。「自分の感覚的なイメージをちゃんと持ってる人だなぁ」とか、そういう実感を見つけながら、関わっていたい。
というか、本来人はそういうふうにしか関われないなぁと思う。

ちか:知らない人に自己紹介するとき、「こういう人生を送ってきました」と単語で説明しちゃうことがある。それでは自分が言いたい意図が伝わらないことも承知の上で、でも30分かけて伝えるのはむずかしいときに、単語で言えることは単語で済ませちゃうことがある。「貧困家庭で育ちました」とか。
でも、実際は、貧困家庭と言っても状況もその大変さの種類もたくさんあって、それは言えてないと思う。
「東日本大震災で」「避難所生活で」というワードで言ったときに、相手が感じる世界観と自分が本当に経験したことには乖離があることもわかっている。

病院の現場でもよくあるなと思う。病院だと診断名で言うことが多い。「統合失調症の○○さん」とか。でも、本当の意味でのその人のことは見てないよねって思う。その診断だって、医者がDSMとかを見て「この症状に当てはまりますね」って付けただけの、記号みたいなものでしかない。それなのに、その人のすべてみたいに言っちゃってた感覚。それは、正直自分にもあったと思う。

さー:それは、いろんなところでありそう。私も気づかずにやってそう。でも逆に言えば、分類すればズレちゃうことはわかっていても、それすらなければ、なにも掴めないっていうこともあるだろうし。

ちか:ずっと、自己紹介で悩んでる。むずかしいよね。

さー:あ、最近自分のサイトを作ってて、自己紹介を書いた! 嘘じゃないけど、わりとどうでもいい、みたいなことをたくさん書いてる。「自分のことなんか、簡単には伝えられないもんだよね」って前提があるかなぁ。私は言葉人間なのもあって、ずっと言葉に疑いがあるというか、言葉は後付けでしかないって思うから……。

ちか:看護学校入ったときの自己紹介で失敗して、3年間友達できなかった経験が大きくて。そこでもう決まっちゃうんだなっていうむずかしさ。違ったことが伝わっちゃうときに、後から修正できればいいけど、〈私が知ってるもうひとつの世界〉ではそれを修正できないんだよね。

さー:「真実はこれだけ」みたいにしちゃうんだよね。

ちか:コナンくんじゃん。

さー:たしかに。真実はいつもひとつ! ……なわけないよね。

ちか:たとえば「楽しい」という単語ひとつでもむずかしい。私が言った「楽しい」は、相手が知ってる「楽しい」と違うかもしれないんだけど、同じということにして、勝手に解釈までされる感じ。〈普通社会〉での自己紹介ってまじでむずかしい。

さー:私の場合「大学は美大だったんです~」というと、勝手に「変なやつだ」みたいに、測れないと勝手に思ってくれるみたいで、すごく楽。オススメ(笑)

ちか:いいね。〈一般的な社会〉の分野に入ってないから、相手の価値観とか、その人の辞書で解釈されないみたいな。

さー:あ、自己紹介は「看護師やってるけど本業はアーティストなんです」って言えばいいんじゃない?(笑)

ちか:私最近、「本職は別にある」って言ってるよ。自分でも、その本業がなにかはわからないけど(笑)
……あ、部活動が本職かも。死にたい気持ちで生きていくのが本業。

さー:それは、自分の死にたい気持ちを隠さないことのほうが、素の自分に近いってことだよね。

ちか:そうそう。開業届を出したときに、税理士さんには「本職では看護系じゃないことをやっていきたい」と言った。

さー:自分のなりわい的な。

ちか:あ、ドラマ関係の職場のとき、「私も、本業はタレントなんで」って言ったことある。

(※「FFPの活動メンバーは、みんな個性豊かなタレントだ」みたいな話があります)

さー:そうだ、私たちタレントだった!(笑)
それでスルーしてくれるならそれでいいし、もしそう言ったときに「どういうこと!」みたいに食いついてきたらおもしろい人かもしれない。めんどくさいかもだけど。

ちか:めんどくさいのは大丈夫。仲間だなって思う。

4時間弱話して

さー:このタイミングでこの話ができてよかったな。ありがとうございます。

ちか:ある意味、「コナンくんありがとう!」だね。少なくともきっかけはくれたね。
なんか、しんどい記憶ってこうやって解消していくんだなぁって思う。話をするうちに、「この記憶も、100%悪いことじゃなかったよね」とかって思えるようになったことは多い。
いろんな人と出会う中で、最悪なだけの出来事だと思っていたことに、少しずつ意味づけしていけた経験は自分にはある。もっといろんな人と、それぞれの人間として対話できたらいいのに。

さー:「人間の本質が言葉」みたいな言説はすごく嫌いだし、違うなぁと思うけど、たしかに言葉は人間の特徴のひとつではあると思う。もちろん、言葉を過信しすぎると表面で終わっちゃうかもしれなくて、そうでない可能性を信じてたい。言葉があるってことは机が増やせるということだと思ってて……。

ちか:机?

さー:ワーキングメモリというか。作業台というか。言葉を使って他者と共有することで、一人の頭だけで考えてる限界を超えていける。言葉があるから価値があるないとか、決めつけたりもするけど、言葉によって希望も増えているはずだと思う。それを活用したい。そのためにはちゃんと言葉を使って考えて、ちゃんと言葉を受け取ろうとしないといけないんだなぁと思う。

ちか:小学校1年生からやるべきな「生活」の授業は、これなんじゃないか。

さー:新しい学校が必要だ。

感想

さー:伊藤亜紗『手の倫理』でいうところの、「倫理的に」(道徳的にではなく)生きるにはどうしたらいいかという話なのかもしれない。こういう言葉遣いもすべて仮(借り)のものでしかないけれど、それでも話すことを諦めずにいたいと思いました。