「森を見ているようで、実は葉脈を見てる」タレント紹介インタビュー 市野さん
タレント紹介インタビュー第二弾は市野さんです。学校現場に長く勤めてきた市野さんから見て、くしろはどんな場所なのか聞きました。(インタビューはなんと去年の十一月でした。公開までに時間がかかってしまいました…)
乳幼研の日々
―――今、市野さんはFFPというかくしろで外部アドバイザーみたいな立ち位置ということになってると思うんですけど、車で二時間以上かけて、外部とは言えないくらいのすごい頻度で釧路にいらっしゃっています。最初は、去年のライフスキルの研修会から関わられたんでしたっけ。
市野:そうですね。
―――休眠預金の活動では、二十代・三十代ぐらいの人が多い印象がある中で、市野さんはすごい長い歴史の中で日置さんとの関わりがあると聞いています。今日は、日置さんとの関わりや、その元になった「乳幼研」のことについて聞いてみたいです。
日置さんとはもうだいぶ長いんですよね。
市野:そうだね。話を遡ると二十年くらい前、乳幼研の研修部会っていうのからですね。
―――ちなみに乳幼研っていうのは?
市野:正しくは北海道乳幼児療育研究会といって、昭和の時代に始まってるんだよ。
昭和の六十年代、たしか私が二十代の頃。当時北海道の知事をしていた横路孝弘さんっていう人が「北海道にどこに生まれても同じような療育のサービスを受けられるようにしよう」っていう政策を持っていて。療育システムを作った人なんです。
療育システムができると、療育に関するいろんな機関ができるから、そこに携わる人も当然増えてきますよね。そういう人たちを、いろんな理念とか経験とか職種とかそういうのを一切取っ払って、みんな対等に集まって勉強する組織を作ろうとしたんですね。その集まりが乳幼研。当時大学出たてで、まだぺーぺーだった私もそこに入れてもらえて、そういうことをやってたわけです。
10年くらい経つと私自身にもそこそこ経験も出てくるし、いつもいるからっていう理由で徐々にランクが上がるっていうかね(笑)。私や現会長とか同年代が多少の発言力を持ってくる頃で。そういう中で、年に一回ある研究大会の中身を決める研修部会に入れてもらったわけです。
―――研修部会。
市野:研究大会は、土曜日の午後から始まり日曜日の夕方四時くらいまで丸二日ずっと続けてる会だったんだけど、日曜日の夕方までやってたら、北海道のはずれから来ている人たちは大会の最後まで出られないわけよ。
―――北海道は広いですから移動に時間かかりますよね。
市野:そう、それで二日目の日曜日の午後はカットするような流れになって、その時間を使って「じゃあお前たち好きなことやってみ」となって。「まだ本プログラムには乗るほどじゃない。だけど何かやりたいことあるんだったらやってもいいよ」と。それで二日目の午後に「オプション講座」っていうのを作って、私たちで架空のケース会議を開いたんです。
―――架空のケース会議…?
市野:「現場では日常こんなことがあるよ」っていういろんな要素をぶち込んだもの。声が大きい人が勝つとか、わけわからん精神論が通るとか。そういうのを無理くりねじ込んだっていうかさ。その元にあったのがなにかっていうと…ウリナリっていう番組知らないよね?「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」っていう番組。
―――記憶にあるようなないような…。
市野:その番組の一つに、高級なコース料理が出てきて、それを全く知らない人たちが自分なりの食べ方で食べるんだけど、それが間違っていると赤い回転灯がくるくる回ってウンウンって鳴る…っていうのがあって。たとえばフィンガーボールなんてさ、その頃そんなポピュラーじゃないから指を洗うなんて誰もわかんない。それをたとえば飲んだりする人が出てくるわけよ。そうするとヒュンヒュンヒュンと回ってね。
―――間違ってるぞと。
市野:間違ってることを「何だこれは」って見せる番組。それにヒントを得て、とんでもないケース会議をやって、ベルがチーンと鳴るっていう…。
―――発言とかでおかしい内容とか、精神論で押し通そう、みたいなのがあったらチーンと鳴るわけですね。
市野:そうそう。私がそういう台本を作ったんですよ。そしてそのチーンを鳴らしたのが伊藤則博先生っていう乳幼研を構想して作った、北海道の療育の草分けみたいな人で療育システム作りに奔走した方なんだけど……。伊藤則博先生と田中康雄先生で二人がこのチーンっていうのを押して、そこにいろいろコメントを入れてくわけですね。これが思った以上に受けて、翌年からの続投が決まって。
でも、その台本を作るのが大変だったわけですわ。
―――その台本はどのくらいの長さだったんですか?
市野:2時間あって。ケース会議そのものは本当少ないんだけど、そこにチーンと割って入る人がいろいろコメント入れたりね。「これこうじゃないか」「ああじゃないか」っていろいろツッコミを入れるところも台本にあって、A4に打ち出したら何枚にもなる台本を作ったわけですよね。
それで「ええ、また台本書くのか…」と思った時、その会議に親の代表として初参加だった日置真世さんがいて。「面白そうだから私が台本書く」と言ってくれたので、私と佐々木さんは「しめしめ」ということで、それ以降、三人でのオプション講座っていうのになっていくわけです。
―――なるほど、その翌年以降は三人でやってきたんですね。ちなみにこれは西暦でいうと何年ぐらいですかね?
市野:二〇〇〇年頃かな。
ただね、日置さんも段々忙しくなったし、これはいちいち全部台本書いてたら大変だっていうことに気付くわけです。二、三年は書いたのかな、でも何回かやってくうちに「ぶっつけで行こうぜ!」みたいになるわけ(笑)。
台本じゃなくてテーマだけ決めて自由に喋った方が面白いし、当時パソコンが普及してきていたから、PowerPointみたいなのを面白がって使う人たちが出てきて。どうやら台本なしでもいけそうだみたいなことになり。
―――情報を見せていくやり方のバリエーションが増えたというか。
市野:そうだね。それで台本なしにして、まあ迷走はするんだけど、たとえば「なんとか相談室」といったタイトル掲げて「こういう相談来てます」みたいなプレゼンして、プレゼンしては日置さんと佐々木さんがコメントをつけて面白おかしくやるわけだ。
―――じゃあそれが十数年前くらい。
市野:そう、去年今年はコロナで大会そのものができてないのでやってないんだけど。日置さんにしても佐々木さんにしてもアドリブには強いじゃないですか。「ここは雰囲気で」みたいなことでいいわけよ。でも私は挙動不審になった。「どうしよう」みたいな(笑)。
―――テーマも市野さんが決めてたんですか?
市野:そうですね。中身は結局私のボヤキだったらしいんだけどね。「現実はこうなんだけどさ、いいのかよこれで」みたいなね。「市野のボヤキがなくならない限りオプション高座は続いていく」っていう日置さんの名言があって。
―――テーマが市野さんから出てきたら、あとは広げる日置さんと佐々木さんがいて。
市野:そう。日置さんは最初はいわゆる保護者の代表みたいな立場の参加だったけれども、日置さん自身がいろいろ若者たちとFFPを立ち上げたとか、広がってったし、北大の助手とかやってた関係もあったから、一気にもう世界を股に掛けるようになってるじゃない。だから切り口の新鮮さがあって。「乳幼児」というテーマで集まってるんだけど、やってるのは思春期を超えて一生のこととかで。いわゆる学齢期を過ぎたところにもいろんな世界があることを教えてくれてたから。
行政的な正しさへの違和感
―――そこが出会いで、それからずっと関係が続いていたんですね。その一方で、ずっと市野さん自身は学校で働いてたんですよね。
市野:そうだね、小学校だったり中学校だったり。
―――市野さんは乳幼研での活動と教員としての仕事を両方長年続けてこられたわけですが、教員をやっている人でそういう人はめずらしい気もします。教員は忙しそうだし。市野さんがそうではなく、力を入れてきたというか、気にかけてきたのはどの辺になんだろうと気になります。
市野:力を入れて来たポイント…うーん。教員の友達はいなかった(笑)。
―――よくいる教員タイプの人とは合わなかったということなんですか?市野さんから見るとその違いはどこにあったんでしょう。
市野:教育がダメだと否定するわけじゃないんだけど、去年のセミナーのときも「学校って…」とかさ、そういう話題になったじゃないですか。それはやっぱり学校の中にいても抱えますよね。
―――抱えるっていうのは?
市野:学校としての正しさとか行政的な正しさはあるんだけど、「それはなんか優しくないな」とかさ、「本当はそこじゃないよな」っていうかね。それで喜ぶのはお金を出してる人なんだろうけど、本当に喜ばなきゃならないのは子ども自身だったり、子どもと一緒に関わっていく親だったりとかじゃないかなとかさ。
でも、自分が学校の中にいる限り、その悩みは一切解決しないし、同調してくれる人もそんなにいない。だから主張を強くすると学校には居づらいっていうかさ。学校の中だけで完結しちゃうというか、しちゃわなきゃならないし。だからどうしても外に行きたくなっちゃうと。
―――それで対等にいろんな職の人とか立場の人がいるような…乳幼研とかのコミュニティに。
市野:うん、たとえば一九九〇年代かな、「学校はブラックボックスである」みたいなことを加藤正仁さんが言ってくれたんだよな。それで、「そうか、俺はブラックボックスの中にいるんだ」って思った。
一方で、やっぱり私は刷り込まれている人だからね。生徒にブラックボックスの論理を押し付けることはできるんだけど、でもその人たちはいずれ学校を間違いなく卒業するし、それ以外のところで生活をしなきゃいけないって考えた時にさ、学校だけでしか通用しないルールみたいなのは明らかに害だよねって思って。
―――生徒や学生にとって。
市野:そういう思いというか考え方は、わりと早い時期に教わった気がする。乳幼研と伊藤則博先生にね。
幼児音楽と教育の基本
市野:たとえば音楽が好きで、学生時代もいろいろやったりはしてたんだけど。
―――いろいろ。
市野:中学校では吹奏楽やってたから高校でも吹奏楽に入ろうと思ったの。でも、高校の吹奏楽部って活動時間がすごく長いのよ。こんなに時間を縛られるのは嫌だと思ってね。でも音楽はやってみたくて入ったのが合唱部だったの。それから、大学では幼児音楽。
―――幼児音楽。リトミックみたいなのとはまた別ですか?
市野:日本に入って来てるリトミックっていうのはかなりこう「日本化された」もので……。
大学の幼児音楽の教室で、夏は身体表現をする「音楽リズム」っていういわゆるリトミックに近い講座、冬は器楽を使った幼児音楽の講義をダルクローズ音楽学校出身の先生に受けたわけ。
そうすると音楽っていうのは何か完成されたものじゃないし、基本は心臓の鼓動と一緒だということを徹底して教えてくれて。その通りだよなと自分でも納得できるし、子どもと一緒に音楽の活動するのも、子どもを縛り付けて訓練させるっていうのは違うなっていうかね。
―――なるほど。
市野:すごい納得のいく方法論だから、それはいろんなもののベースにはなったのよ、自分にとって。子どもは未熟で未分化なんだから、その時に未熟で未分化なままの体験をいっぱいさせないと。最初から完成させるものを狙わないで。絵を描くとか作文するにしてもそうだよね。最初から誤字脱字ばかり指摘したらやる気そのものが失われるようになるからさ。
―――「一字落とさないとこの作文は見ません」とか言われたら困っちゃいますもんね。
市野:子どもと接することとか教育についての基本を、そこで学んだ気がするんだよね。全てに通じること。それを紹介してくれたのも伊藤先生だったです。先生は当時、教育大学の幼児教育の教授だったんだよね。私は技術科専攻で全然つながりはなかったんだけど、たまたま高校の同級生が伊藤先生のところに入ってて、「なんか面白いことやってるぞ」と言って教えてくれて。
だから大学を卒業して、どうやら自分が中学校の本校勤務じゃなくて「ことばの教室」っていう……今でいう所の通園センター、児童発達支援とかそういったことをやってる地域の療育センター的なところに、中学校に籍を置きながら出向するような職場だってことがわかり。それで伊藤先生のところに行って「とにかく勉強したいので本を紹介してください」と言ったらたくさん紹介してくれて。全部買ったら全然払いきれず最初のボーナスの大半をつぎ込むことになったぐらい紹介されたけど、今でも、これは大事だよなっていう本は何冊かある。
そこまでいろいろ面倒見てくれてた伊藤先生が「乳幼研を作るぞ」って言ったら「はい」しかないわけですよ。「こういう先生が来る、話聞きたいと思わないか?」「イエス」だよね(笑)。
―――なるほど。
市野:「十勝で懇話会作るぞ」「オホーツクにも作ってみないか?」って言ったら「喜んで」ってね。「はい」と「イエス」と「喜んで」以外はないぞみたいな。でもそれで本当にいろんな人に会わせてくれたので。
くしろの若者たちとの出会い
―――くしろの若者たち…FFPみたいな活動との関わりは今までもあったんですか?
市野:日置さんが乳幼研に若者を連れてきていろいろシンポジウムに登壇したりとか。
―――いつのことですか?
市野:私が五十六、七歳くらいの時かな。だから今から五、六年くらい前。日置さんが北海道各地で「巡業」と称していろんな地域支援をやってた時期があるんだよね。それの一環で釧路でセミナーをすることになって。その時に私たちにも声をかけてもらって、私が話をする枠をもらったのさ。
それで、FFPの若者たちと実際に直に話せる機会があって。いろんな話を聞かせてもらった時に、ちょうどその時に勤めてた学校も、そういういろいろな辛さを背負った、というか背負い込まされた若者たちのずっと何年か前に遡ったような……そういうイメージの子たちがいっぱいいる学校だったのよ。いわゆる社会的養護っていうか、そういう関わりが必要な子どもたちが色濃くいる学校で。それともう一つは、自分が今までいろいろ見て来て、「これは大変だよ」って。子ども自身や親だけに頑張れって言ったってそれは無理って話なので、だから何とかしたいんだけど、学校っていう制度だとかこういう立場ではなんとも手が出せない。でも見過ごせないような、見捨てておけないような、でもなんともできないっていうような……そういう事例を見ていて。
―――学校で関わっている中で。
市野:そうですね。学年が違うと噂だけは聞こえてくるんだけど、なんともしがたい、歯がゆいこととかね。でもその時に見過ごしてたとか、あるいは指くわえて手も出せずにいた子たちが大きくなるとこうなってるだろう、というのが繋がった瞬間があって。
学校っていうのはたしかに一部の人たちにはすごくいいものだし、良い評価ももらえるんだけど、同時に罪作りなこともいっぱいやってるよねっていうことを教わった気になったっていうかね。まあ自分勝手な理解なんだけどもさ、それもね。
だからこれは早いところ退職してこっちの方をやらないと、自分の人生、自分が加害者で終わっちゃうみたいな、そういう気にもなり。自分も実際にいろいろひどいこともやってきているわけだから、罪滅ぼしと言ったらおこがましいんですが。なので教員をやってる中で取りこぼしてしまってたことを退職後はやろうっていう風には思ってたの。
―――罪滅ぼしっていうのは。
市野:やり残したというか。そこに、できないなりに向き合わなきゃと思ったんだよね。でも、向き合う前にどんな人がどんな思いでいるのかっていうことを、まだ学ばせてもらってる段階ですね。
乳幼研なりに参加してやっていく中で僕は思ってたのはね、やっぱり責めちゃいけないっていうことだよね。とにかく何かこちらの思い通りにならないことがあると子どもや親のせいにしがちで。そんなつもりはなくても傍から見たら結局そうしか取れないようなことを自分でも随分やってたんだね。
その轍は踏みたくない、他の人にも踏んでほしくないなっていうのもあるし、これから出会ういろんなことについてもそういった間違いは繰り返さないようにしなきゃなっていう思いはあるよね。
―――それは、後悔というか。
市野:反省。もう贖罪というかさ。
療育の現場では、やっぱり親は困って困って来てるんだよね。私らみたいな一回二回見たような人たちが「こうですよ」なんて言わなくたって、ある意味悟ってるわけなんだよね。でもそれが受け入れがたい。一人では受け入れがたい。こういう風に育ってここまで手をかけて来たのに「障害ですね」とか「遅れてますね」と言われたところで、なんともならんのだわね。それを蚊帳の外にいる私たちが「障害受容がどうのこうの」と言ってもね。
飲み込むのに時間がかかる、飲み込んではいるんだけど、それをたとえばすごく複雑な思いでいるようなことがあって、そこにわざわざ立ち入る必要はあるのかって。でも若い時はごりごり行くわけだ。やっぱりね、これまで本当に悪いをことしたと思う。
あるときは面談係、またあるときはファーマー
―――この界隈では、今はいろんな若者の話を聞いていたりしますよね。私が調子悪かった時にも話を聞いてもらいました。そういう面談係みたいなのをいろいろやってくれてたりもしていますよね。
市野:自分ではそこは得意分野ではない気がするんだけどね(笑)。
―――その他にもいろんなことをしていますよね。
市野:今は木曜日はファーマーだよね。
―――そうですね、多彩な(笑)。毎週木曜日は斜里に行ってなにしてるんですか?
市野:農作業一般だから、これは自分が農家出身だから違和感はないわけよ。 そこそこ初心者ではない、みたいなところ。
―――斜里の畑仕事も若者活動プログラムという面があって、いろんな人が行っていると思うんですけど。
市野:そう、みんなもっと活用したらいいのに。あの自然はいいからね。一緒に行って「何時に帰るからそれまでに戻っておいで」って約束して連れてってもらったらいいよ。
―――ほっつき歩く?
市野:そう。ちょうど片道三キロくらいのところにね、天に続く道の展望台みたいなところがあるからね。
―――行ってみたいです。
市野さんはファーマーを木曜日はやっていて、金曜日は毎週会議に出席してもらって、だれかの面談を受けたりして。
市野:そうだね。あとは月一回で佐々木さんたちが来た時の、分類しようがない名付けようがないけど…いろいろやってるよね。
―――泊まりで釧路に来ているときも結構ありますよね。
市野:そうそう。でもあんまり貢献してる実感はない。顔出してるっていうかね、そうして人の頭に数えられてるぐらいのことしかしてないんだけど。まあ相手にしてもらえてるだけいいかみたいな。退職するとそんなようなもんよ。
―――なるほど。でも市野さんが当たり前にやってるような事が他の人にはありがたいことも多そうです。
市野:そうか。環境づくりに貢献してるっていうことかな。
―――人はお互いがお互いの環境ですもんね。そういう意味では本当に貢献というか、釧路のタレントであるし。
市野:あ、そういうタイトルだったよね。タレントね。
―――そうなんです。これはタレント名鑑です(笑)。タレントだし環境でもあるし、でもその経験の中でいろいろ教えてもらったりもあるし。今は釧路に月だと何日くらいいるんですか?
市野:週の数プラス一日か二日という感じじゃないですかね。
―――わりと淡々とというか、「この日来られますか?」って言ったら「じゃあ行きます」という感じで釧路にいらっしゃるんですけど。その生活って今までとはだいぶまた違うものですか?
市野:うん、違うよね。仕事あっても何時から何時までっていうのが公務員だから。遅れず、休まず、働かずみたいな。
自分も老父母の世話しなきゃならないっていうのがある中で、がんじがらめにされていたらきっとつらいでしょうね。今はゆるく自由に生活させてもらってるんで。
市野さんからみた「くしろ」
―――最近の釧路はどうですか?人を見ていて思うこととか。最初にFFPの若者たちと関わったときと同じ印象が続いていますか?
市野:いろんな情報が入って来るので、やっぱり見かけだけじゃ判断つかないよねっていうことですよね。
―――見かけ。
市野:見かけっていうか…最初は一人ひとりと深く話すっていう場面はあまりないじゃないですか。でも去年なんかはセミナーで自分の体験とか考えとかみんな披露し合いますよね。たとえば、教職で現職中のときは自分の失敗とか恥ずかしいお話とかなかなかできないし、する場面もなかったんだけどね。
でもここではそういった「自分はこう思う」という自己開示が当たり前ですよね。そうやって時間を共にしていくと自分もこの歳で仲間に入れさせてもらえてるのかっていう思いとか、「自分はこう思ってたんだな」とか。今まで自分が自分について語ることを躊躇していて、怖いとか恥ずかしいとかっていう思いが最初に来てたんだろうけども、そういう垣根をなくしてくれる人たちだよね。安心感が出てくるし。
罪滅ぼしにどうのこうのってさっきは言ったけども、自分が逆に癒されてるとか、そんなことで暮らさせてもらってるっていうようなそんな感覚になってきますよね。
―――自分を開示する機会というか、そしてそれを前提で話すみたいなことも、どこにでもあるわけではないですもんね。
市野:そうですね。まあ自己開示が上手でいろいろそれを武器に生きる人も中にはいたりするんだろうけど。してる風に見せて上手く人を惹きつけてとかね。
―――そうですね。そういう上手くやるのと、くしろの自己開示はちょっと違うところありそう。
森を見ないで葉脈を見る?
―――市野さんが市野さんを語るとしたら、どういう人ですか?
市野:自分でもよくわかってない人だからね。
―――わかってない?
市野:「この人はこういう人です」みたいなことがね。キャッチフレーズは自分ではよくわかってない(笑)。ただ自分では当たり前というか、普通だと思っていることが世間一般ではそうじゃないんだなっていうのが釧路に来てより多くのフィードバックを貰って知るようにはなりましたね。良い意味でね。
―――ちなみにどんなフィードバックがありました?
市野:たとえば、この前、チャットの仕事に参加しようってそういう流れになったけど、私は本心としてはできるだけ避けてた部分だったんです。機械を使いこなせないし、いろんなアドリブに返球できるほど器用じゃないし体力や瞬発力もないし。だからできるだけ関わらないでおこうと思ってたんだけどね。
でも、日置さんが言ってたじゃないですか、むしろ「的外れな発言を期待してる」みたいなこと。それで、薄々は感じてたけど「やっぱりそうか」みたいな(笑)。でもある意味そこを認めてもらったのは誇らしいというかさ。いいのかな、そんなこと言ったら本気にするよってね。
―――議論がどんどん狭まっていっちゃう時、別の視点の話があるとよかったり、ちょっと離れた話に行かないとどんどん硬直してっちゃうことありますよね。私も市野さんがチャットにいてくれたらいいなって思いました。少なくとも、私とは別の感覚で流れを見ていて。
市野:あらかじめ言っておくけど期待しない方が(笑)。基本的に森を見ているようで実は葉脈見ているような感じだよ。
―――(笑)。細かいところを見ているタイプなんですか。
市野:ある年の秋にADHD系の知人二人と出かけて。紅葉も綺麗になり始めたくらいの色づき始めた森で、私が二人に「木によっては揺れ方が違う」「葉っぱも違うし、しなやかさとかも違うから、幹全体が揺れるところもあれば葉っぱだけがちらちらっと動くのもあって、これは見てて飽きないんですよ」と話したら、「ん?」と。一瞬止まったというか、「これは違うことを言ったな」「空振りしたな」みたいな感覚になったことがあって。
―――そういう感覚のこと聞いているの、ADHD系の私はすごく好きですけどね。そういう細かさとかこだわりのことを「自閉みだね」ってこの界隈で言うことありますけど、いいですよね。
市野:ああ、少数派の意見だね(笑)。
―――「今なんかみんなと違う方向いてると思ったら、そこを見てたんだ!」みたいな驚きがあって、そういう話を聞くの大好きなんですけどね。
市野:そういった感覚は、いわゆる学校という現場の中では上司に向かって直接指摘する人ってあんまりいないのよね。くしろの人たちが「市野さんってこんな頓珍漢なことを言ってね」みたいなさ、いじりを入れてくれるんだけど、そういうことは現職中は全くないから(笑)。
―――市野さんの素敵なところをスルーするわけですね、みんなね。
市野:だって、みんなある意味平均化する工場にならないと。
―――平均化する?
市野:子どもたちが、外れたり飛び出たりするのを「この中に収まれよ」ってするのが学校だからね。というか、それをある意味期待されて学校は存在してるから。でもくしろの文化は、相手を認めることが本当にベースにあるから、いろんな失敗が許されてる感覚はあるかな。